元ひきこもり、ADHD。生きづらさを語る。

中学3年間不登校、20代ひきこもり正社員歴なし、そして30代でADHDと診断を下された人間の日記。

恩義

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以前に描いた絵です。

 

仕事終わりに

深夜まで営業しているカフェに寄り

スマホで日記を書いている。

 

そんな、なんでもないことが

ありがたく感じる。

 

引きこもっていたころは

なんとか働かずに済む方法が

あればと思っていた

働きたくないわけではなく

ケアレスミスを繰り返し

単純な作業すら

そつなくこなせない

無能な自分に

就ける仕事などないと

本気で思い込んでいた

30歳で学歴はもちろん

履歴書に書けるような職歴もなく

一体、どうすればいいのかと

毎日、頭を抱えていた

 

あの頃から

ずいぶん経った

半年仕事が続けば

良い方だったぼくが

同じところで

何年も働き続けている

今となっては働くことよりも

働けないことの方が

恐ろしいくらいだ

 

引きこもったまま

誰とも会わずに稼げる方法は

ないのだろうか?

あの頃は

そんなことを本気で考えていた

 

雇われずに個人で稼いでいる人や

ニートをしながら

ネットで稼いでいる人たちの

ブログなどを見て

自分もそうなれればと

憧れたものだ

 

だけどぼくは

仕事が嫌だったわけじゃなくて

仕事がしたくても

まともに働ける能力がないだけの

社会的弱者だった

 

なんとか

職にありついたぼくだが

最初は何度も挫けかけた

失敗の連続で

職場で泣き崩れたことや

退職させてくださいと

懇願したこともあった。

 

今、こうやって

仕事を継続して

自立できていることが

自分の力だけで

成り立っているなどと

思ってはならない

 

職場の人たちに

迷惑をかけまくり

支えられ

助けられたからこそ

こうやって

仕事の終わりに

カフェに寄り

コーヒーを飲みながら

ブログなどを

つづっていられるということを

決して忘れてはいけない

 

孤高でもなんでもない

ぼくはただの弱者であり

一人じゃどうしようもない

無能であることを

胸に刻み

今まで迷惑を掛けた人たちに

感謝していくこと

 

心の底では、いつか

自由になれる日を

夢見てるけど

 

愚痴らず
精一杯働くことだ
ぼくに出来る恩返しは
それくらいなのだから

 

卑屈にならず

悲観に明け暮れず

良いことがあろうと

なかろうと

慎ましく真摯に

やるべきことを

淡々とやっていけるように

至難ではあるけど

いつかそんな風に

生きていければと思う。

 

 

それでは

 

 

 

 

 

 

バッドエンド

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以前に描いた絵です。

 

2019年1月27日

某国家試験が終わり

試験という精神的な抑圧から

解き放たれた。

そしてコンサータのおかげで

日常生活も落ち着いてきた。

 

最近は趣味だったお絵かきを

再開しようと思えるくらいに

色々と安定してきている。

 

ぼくには

やりたいことがたくさんある

 

体を鍛えたり

色々な映画を観たり

楽器を始めてみたり

旅行にいったり

風景を撮ったり

 

今よりマシなところに住んで

いつか、猫を飼ってみたい。

そんな、目標もある。

 

ああ、そうだった

生きたいと思える

理由が

こんなにも残っていた。

 

死ぬのは

思いつく限りのことを

精一杯やり切ったあとにしよう

 

人生を嘆いている場合ではない

時間は容赦なく過ぎていくのだし

もっと真剣に生きねばならん

 

希望は苦手だ

何かを期待し何かを望むほどに

惨めな思いにさせられる

 

絶望はとても心地が良い

絶望をしていると

少しのことでも

ありがたいと感じられる。

ただ、働いているだけで

こんな惨めな自分を

赦せる気がしてくる。

 

自分にとっては

絶望こそが

相応しい境地なのかもしれない

希望など抱いたところで

拭えない嘘臭さが残るだけだ

だからぼくは

絶望したまま

泥臭く生きてやろうと思う。

 

 

絶望しながらでも

ジタバタと足掻いてやる

どうしようもなく弱く脆い

自分自身に復讐をしてやる

そんな風に思う。

 

力の限りを出し尽くし

この呪われた人生を

最期はきっちりと

自分の手で命を絶てるように

もっともっと

絶望しなきゃならない

 

絶望、どんとこいだ

 

とはいえ

愚かなぼくのことだから
いつかまた

どうしようもなく落ち込み

他人を妬み、羨み
自分を憐れんで
また不幸に浸ってしまう時が

くるだろう


それでも

何回だって立ち直ってやるさ

自分で自分を慰め

這いつくばってでも起き上がる
引きこもりから脱した時も

いつだって

そうしてきたのだから

きっと大丈夫

 

もう終わったような

人生だから

きっと大丈夫さ

 

 

それでは。

 

 

 

 

 

 

 

ありがとうコンサータ

昨年の12月にADHDだと診断され

現在も通院を継続している。

 

はじめに医師から処方された

ストラテラが合わなかったために

薬を変えてもらうことになり

いまは、コンサータ27mgを服用している。

 

ストラテラでは

様々な副作用があったのだが

コンサータによる副作用は

今のところ不眠くらいだ。

 

この不眠という副作用が

皮肉にも、ぼくにとっては

プラスに作用している。

 

というのも

コンサータを服用する以前は

異常な過眠に悩まされていて

やりたことが何も出来ない

生活を余儀なくされていた。

 

 

仕事が終わって

くたくたになって帰宅すると

充電が切れたように

強烈な睡魔に襲われ

半ば気絶するように眠っていた。

数時間後に目が覚めたあと

ダラダラと飯を食い、風呂に入り

ネットを眺めたりしていると

あっという間に

次の日の仕事が始まるという

生活リズムが日常になっていた。

 

休日は休日で

少し作業しただけで

睡魔に襲われて

惰眠をむさぼり

その日一日を台無しにする

というありさまで

趣味のひとつも手を出せず

本当に、なんのために働いているのか

わからない状態だったのだが

コンサータを服用するようになってから

気絶するような眠りが明らかに減った。

 

仕事から帰宅後は

体は疲れているのだが

まだ余力が残っているのだ。

これまで

異常な過眠に悩まされていた

ぼくにとっては

めちゃくちゃありがたいことである。

 

今までやろうとしていたこと

やりたかったことに

ようやく

手を伸ばしていけそうな気がしている

 

肝心のコンサータの効果については

あまり実感できていない。

そういえば

うっかりミスが減ったような気がする

くらいの感覚なのだけど

 

しかし

異常な睡魔から解放されたという

一点だけでも

コンサータ

服用して本当に良かったと思っている。

 

 

ありがとうコンサータ

 

どうかぼくを

導いておくれ

 

それでは

孤独

ぼくは世間話ができない
他人と何を喋ればいいのかがわからない
っていうか世間話ってなんなんだろう
天気の話?
昨日のニュースの話?

いずれにせよ
他愛のない会話というものが
まるで出来ない
コミュニケーションに関する本を
何冊も読み漁ったが
コミュ障の治し方が
未だにわからない

職場や街中で他人の会話に
聞き耳を立てると
ちょっとしたことで盛り上がり
笑いあったりしていて
とても楽しそうに聞こえる

ぼくが
彼らのマネをして
同じように喋ってみると
その場の空気が止まる
自分の緊張感が伝わり
相手も身構えているのがわかる

かつて
コミュニケーション能力が高い人とは
テンションが高かったり
トークスキルがある人だと思っていた
だけど、ある時に
そうではないことに気づいた。
表面的な明るさや、会話の内容よりも
人としての立ち居振る舞いが不自然だと
まともな会話が成立しないのだ。

自分の挙動が不自然だという自覚はある
それは、長年に積もり積もった
他人への恐怖心が
意図せず
無意識のうちに表出されているのだろう

介護職に就けば
少しはコミュ障も直るかと思っていた
だけど、そんなことはなかった
人間そのものへの恐怖心は少し薄らいだが
未だに人としての
自然な立ち居振る舞い方を
習得できていない

そもそも
人としての自然な立ち居振る舞い、なるものは

どうやって培われるのだろうか?


おそらく

人間関係の原初となる
親子関係が礎となるのだろう

幼児期から思春期あたりまでの

親と子の関係が

その後の人生にも多大な影響を及ぼし続けるのだと思う。

 

ぼくの場合、産まれてからこれまで
親との日常会話がほぼない、という
環境で育ったため
コミュニケーションの核となるものが
まるで培われないまま、歳を重ねてしまった

 

もちろん、例外もあると思う
親との関係が悪かったり
そもそも親がいない場合であっても
セーフティネットとして
親類や、身近な人との関係を
運よく構築できた場合
それがコミュ力低下の
歯止めになるということもあるだろう
だがぼくは

そのセーフティネットにすら
引っかからず
コミュ障のままに
社会に出ざるを得なかったのだ


この社会では
他愛のない会話や、どうでもいいことを
お互いに共有できないと
まともな人間関係を構築することは難しい
それは学生であっても会社員であっても
どの立場でも変わらないと思う

 

ちょっとした出来事や事柄について

喋りあい、共有しあうことで
お互いの本心を
徐々に開示していくというのが
人と人との距離が縮まる上での
自然な流れであり
そこから友情や恋愛に
発展していくこともあるし
そこまで関係性を深めなくとも
気心の知れた知人として
心地のよい関係を維持することもできるのだろう

 

だが、ぼくのような
機能不全家族の中で育ち
人としての立ち居振る舞いを習得できないまま
大人になってしまったコミュ障が
意を決し、勇気を振り絞って
他人に話しかけたところで
まともな会話が成立することは、まずない
それどころか
相手に誤解や
不快感を与えてしまうこともある
それでも頑張って
不器用ながらに
コミュニケーションを試みると
一体、どうなるか?
喋りづらいヤツ
変なヤツ
というイメージが定着し
距離を置かれるという事態に陥る


周りの人たちが
くだけた話をしながら
仕事をしているなか
少し離れた距離でぼくは独り
黙々と作業に勤しんでいる

 

これは、ぼくが
この人生で
何千回も経験した光景だが
未だに内心では
心がえぐられそうになる思いになる

 

”なぜあの輪の中に、自分はいないのだろう”
”なぜあの輪の中に、自分はいないのだろう”

 

と、止めどない自己嫌悪が脳内を反芻する

 

”自分が無能だから仕方がない”
”自分は人間以下の存在だから仕方がない”


こういう時は
自分をサンドバッグ代わりに責めることで
なんとか平静を保とうとしている

 

大丈夫
人間である以上
いずれは終わり
いずれはこの世から解放される
この惨めさも、苦しさも
何もかも消えてなくなる
だから
その日がくるまでは
腐らずに頑張って生活していこうと

 

平静を取り戻した後は

心のなかで強がり
自分を無理やりに鼓舞していく
いままで、そうやって自分を慰めてきたし
これからもそうしていくと思う


最近では、孤独を肯定的に捉えたものや
孤独を推奨するような内容の本が
数多く出版されているらしい
昨今の世相を反映しているのか
孤独な人が増えたということなのか
なんというか
ぼくはそれらの書籍に
目を通したことがないし
これからも読む気はないが
いくつかの書籍の表題を見る限り
とても傲慢に感じるし
苦々しく思う

 

現在も過去もおそらくこれからも
孤独である当事者からすれば
やっぱり
出来るのなら
人は孤独じゃない方がいいと思うし
孤独を避けられるのなら
なるべくはそうした方がいい


ぼく自身
孤独を気取るつもりも
自分で孤独を選んだつもりもなく
そうせざるを得なかったというだけであり
孤独の必要性であったり
孤独の美学など
嘘くさい持論を述べる気は
毛頭ない


ぼくが孤独について
ただひとつ
確信をもっていえることは

 

ツライ


の一言である。


それでは

 

 

全人間的復権

旅行の計画を立てていた。

 

ぼくはあまり旅行が好きじゃない

正確にいうと観光が好きじゃない。

移動中にぼーっとするのは好きなんだけど

観光地に着いた途端

カップルや家族や友人同士で

楽しそうにしている人たちのなかで

ぽつりと、自分が孤独であることを

嫌でも痛感させられる

 

とはいえ

仕事以外は基本的に

ずっと家で過ごしていて

引きこもっていたころと

大して変わらない生活を送っている。

これじゃ

なんのために

働いているのかわからない

 

なぜ自分は

働けるようになりたかったのか

引きこもっている自分を変え

可能であれば

普通の人生に近づければ、と思っていた

だけど人生は

思い描くように変わることはない

特にこの社会では

つまづいた人生の修正には

大きな労力と時間を要する

それにぼくの場合

経済的、環境的に恵まれているわけでもない

誰かの支援を受けるという恩恵はない

この状態から脱するために

自分が出来ることをするしかないし

出来ないことでもしていくしかない

 

結局のところぼくは

未だに独りぼっちで

誰とも仲良くなることもできていない

この先も

独りぼっちである可能性の方が高い

そうなるに至った背景に

自分以外の様々な要素が積み重なったのだと

弁明したいところではあるが

そんなことを嘯いたところで

自分自信を納得させることもできないし

何ひとつとして変わることはないだろう

 

自業自得や自己責任という言葉は嫌いだ

他人に向けて

そのような言葉を発するような輩には

嫌悪感を覚えるし、関わりたくない

しかし

自分を動かせるのは自分でしかないし

これからは自分で行動を起こし

それに伴う変化や生活への影響も含めて

すべて引き受けていく覚悟が必要になる

 

今回、計画している旅行は

レジャーというよりは

リハビリといったほうがいいかもしれない

 

家で過ごすだけではなく

外出した上で

自分にとって何が楽しいのか

何が心地よいのかを少しづつ確かめていきたい

 

本来であれば

自分が何が好きとか

何が心地いいか、といった感覚は

10代を迎えるころには

自然に備わっているものだろう

それ以降でも、誰かに教わったり

誰かと体験を共有していく中で

習得できるものだったりするのだろう

 

だけどぼくは幼少期から

親兄弟との会話もなく

友人も少なく

ずっと内に籠っていて

自分のなかの癒しといえば

アニメやゲームなどのサブカルチャーだった

 

思い返せば

ぼくが

独りぼっちじゃなかった時期などなかった

いつも

誰かと自然に関われる人たちを

傍から見ていて

とても羨ましくて

自分もいつかそうなれればと思っていた

 

ぼくが愚かだったのは

孤独に開き直ることも出来なかったことだ

いつも寂しさに苛まれて

自分を哀れんでいたし

素直に寂しいとも言えずにいた

寂しいと口に出すことが

キモイと思われるのが怖かったのだ

 

たまに職場の人から

クールだと言われることがある。

でも、全然そんなことはなくて

実際のところ、つらいの一言でしかない

 

ぼくは家で過ごすのが好きだけど

本当は、集団スポーツを愉しんだり

誰かと余暇を過ごしたりしたかった

でも、いまさら

自分がそんな風になれるとは思えない

 

もはや時すでに遅しといったところだが

何もかもを諦めることはできない

表面的に諦観を気取ることはできても

内心を誤魔化すことはできない

この虚しさからは

どうあがいても逃れようがない

 

こうなったら

ジタバタと足掻くしかない

 

この人生が

もうどうでもいいと

心底思えるまで

試せることは試していこうと思う

もちろん

公共の福祉に反しない範囲

 

まあ、適当にやってみよう

自分の人生なんだから

 

 

それでは

玉虫色の人生

好きなことを仕事に出来た方がいいし

極力、楽に稼げた方がいい

貧困よりも裕福が良いし

孤独よりもパートナーがいた方が良い

そんなことは

言われなくても解っている

 

だが、それが出来ない、出来なかった場合は?

 

テレビにせよネットにせよ書籍にせよ

出来ない、出来なかった人生への

フォローやエールが少なすぎるように思える

 

ドラマにも描かれず

曲の歌詞にもならず

映画化もされない

 

そういった

創作にもならない人生だってある

 

やりたいことも出来ず

孤独状態が続き

ツライ状況から抜け出せず

何も果たせなかった

そういう人生も

案外ありふれたものだと

ぼくは思っている

 

それは怠慢の結果かもしれないし

努力が報われなかった結果かもしれない

運が悪かっただけなのか

経済的な理由なのか

いずれにせよ

他人にとやかく言われる筋合いはない

 

どんなに不幸な状況であれ

皆が皆、即、死のうとはならない

大抵は、希死念慮に苛まれつつ

無気力に陥りつつも

辛うじて日々をやり過ごして

生きていくもんだろう

 

何もかも手遅れだから

一切を諦めて

仏陀のように悟りを開けるわけでもない

 

心の中にわだかまりを抱えながら

後悔を携えながら生きていく

嫌でも仕方なく

今日を過ごし明日を迎える

 

そんな日々を苦悩しながらも

いずれは、自分が実現可能な

人生の折衷案のようなものを

見いだせるかもしれない

 

しかし、そんな折衷案すら見いだせず

命を絶った人たちも大勢いるはずで

だからといって、命を絶った人たちの人生が

間違っていただなんて

傲慢なジャッジはしたくない

 

人生が転がり堕ちる切っ掛けは

色々とある

例えば

歯がちょっと出ていることを気にして

笑えなくなった人もいるだろうし

声が変だと言われて

人前で喋れなくなった人もいるだろう

 

そういったことが切っ掛けで

自信が持てなくなり

段々と他のことにまで影響し

やがて、外に出ることすらできなくなった

というケースも十分にありうると思う

 

だからといって

赤の他人に

お前はあの時ああすればよかっただなんて

説教をされる謂れもない

 

苦しみを引き受けながら

前に進む人もいれば

命を絶てず

死ぬことすらできない人もいる

 

なにが正解で不正解かなど

誰にも決められないし

誰にも決めさせてはいけない

 

ただ、そういった人生もある

というだけの感想で留めるのが

人情ってもんだろう

 

ぼくは自分の中の確かな納得感みたいなものを

模索している段階で

それはきっと

テレビにもネットにも書籍にも

あまり書かれてはいないこと

なんだろうと思っている。

 

明日みつかるかもしれないし

一生みつからないかもしれない

自分だけの納得感を探し続けるつもりだ

 

いずれにせよ

今日も生きている

明日もたぶん生きると思う

 

それでは

自分は引きこもり生活を楽しめる側の人間ではなかった

人によっては

シンプルに解決できそうな問題でも

底の底まで堕ちてしまうと

そう簡単に立て直せなくなるものだ

仕事のことにしたって

引きこもりのことにしたって

自然に出来る人や

出来るようになった側からすれば

出来ない人が

なぜいつまでも出来ないのか

不思議でしょうがないだろうし

怠けにも見えるのだろう

 

インターネットには無理解があふれていて

自己責任論をいちいち主張する輩が大勢いる

そういった理解の無い人たちとは

なるべく関わらないようにしていきたいが

インターネットを眺めていると

どうしてもそういう輩の

無駄に厳しい主張

に遭遇してしまう

 

現実に適合できない

不器用な人間にとっては

逃げ場所に思えたインターネットですら

心が休まる場所ではない

 

ぼくも現実に接する人たちが怖くて

インターネットに自分の居場所を

見出そうとしたが

しかし

最近では現実に接する人たちのほうが

よっぽどやさしいと思うようになった

少なくとも

無駄に厳しい自己責任論を

直接浴びせられる機会など

現実ではめったにない。

 

あれだけ

現実の人たちを恐れていた自分が

徐々に現実との距離感を縮めようとしている

働けるようになって

地に足をつけて生きるということを

ようやく体得出来るように

なったのかもしれない。

 

ぼくはもう30代の中年で

相変わらず孤独で

相変わらず平均以下の収入で

相変わらずの出来損ないだが

いままでの人生で一番気楽だ

 

何度でもいうが

引きこもってた頃の方が

1万倍ツラかった。

引きこもっていたころの不安感に比べたら

労働のツラさなんて

ハナクソみたいなものだと思う

 

インターネットでは

労働への嘆きがあふれているが

無闇に労働から脱したとして

一部の金持ち以外は

また別の地獄が始まるだけにしか思えない。

 

無職、引きこもりを充分に経験したぼくにとって

労働で味わう地獄の方がまだマシだ。

 

 引きこもっていて楽しい生活が

維持できるというのは

よっぽど恵まれた環境にいるか

類まれなる才能だと思う。

 

ぼくには

引きこもり生活をエンジョイできる

財力も才能も人脈もないので

働いていた方が

よっぽど精神的な安定剤になる。

 

そのあたりを

履き違えないように

日々の生活に勤しみたいところである。

 

それでは。